なんか全部やんなっちゃったときのやつ。
駅前。きゃらきゃらと言葉を交わす人や、がつがつと早足でどこかへ向かう人に混ざり、ゆらゆらと僕がいた。
真冬の曇り空は憂鬱だ。じとりとマフラーに顔を埋めて歩く。押し込んだイヤホンからだばだばと音楽が流れ込む。心の底の痛みと、周りのすっとした冷たさが混ざり合って憂鬱だ。寒いのは憂鬱だ。周りがうるさくて、憂鬱だ。ランダム再生に設定した音楽再生アプリがうまく僕の気持ちを汲んで曲を選んでくれないのが憂鬱だ。憂鬱で憂鬱で仕方なかった。しかし僕は冬の街を歩くのが好きなはずなのだ。少なくとも、夏の街を歩くよりはずっと。夏は周囲が激烈すぎて自分の存在が浮くのに対し、冬はざりざりと乾いているけれど寡黙だから僕は黙り込んでそこに立っていても馴染んでいられる。コートを着込みマフラーを巻き手袋をつけ肩にかかった鞄の紐を握りしめればたぶんそれだけでもう十分で、地面を睨みつけながら歩いても画になるのは冬だけだ。他の季節は僕の領域にじゅくじゅくと染み込もうとするけれど冬はそこにあるだけだ。やさしくて、寂しい奴。
歩く。歩道のタイルの色を眺める。青、黄色、赤、並び方、自分の靴いくつ分で何枚になるか、一歩で何枚のタイルを踏み越えられるか。眺めながら家に着いてからのことを考える。僕の担当する家事のいくつかが手付かずなのを思うと憂鬱だ。家で交わす他愛ない会話を思うと憂鬱だ。今は誰とも話したくない。そういう方面に憂鬱だから、話したくない。
歩く。点滅する青信号に駆け出す気にもなれず、すごすごと立ち止まる。ポケットに手を突っ込んで、スマートフォンの音量を二つあげる。僕があきらめず渡ろうとさえ思っていれば駆け出さずともたっぷり歩いて渡り切れる程度の時間点滅した後、信号は赤に変わる。憂鬱だ。憂鬱だから、視覚から意識を引きはがす。そこそこな音量で鼓膜を震わす音楽に意識的にノイズを撒き、全体的に脳内に知覚を回す。今日自分が交わした会話について考える。何度も何度も巻き戻して、何度も何度も頭の中でやり直す。あれは失敗だった。次はもっとキレのいい言葉を使おう。タイミングも微妙に間違っていた気がする。対してあれは正解だった。うまく繰り返せば鉄板ネタにできるかもしれない。
巻き戻し、再生、巻き戻し、再生、巻き戻し、加筆修正、再生、吟味、思考、判断、決定、記憶。努力はやめられない。でも憂鬱だ。明日も会話は終わらない。連続する世界は終わらない。憂鬱だ。朝は起きるもので、友人は僕のことが好きで、リンゴは落ちる。憂鬱だ。嫌で嫌で仕方がない。頭が動くのが。きりきりと眠気が頭を締め付けるのが。
信号が青に戻る。戻る? 信号はどの状況を『元』としているのだろう。青がから赤に変わり青に戻るのか、赤から青に変わり赤に戻るのか。きっとどちらでもない。そしてどうでもいい。
歩き出す。寒かった。赤と青と信号。鶏と卵。タイルの色と数と歩幅と靴。会話。家事。笑顔。ごちゃつく脳内を持て余しながら歩く。駅から離れれば離れるほど人は減る。冷たさは増す。何か温かいものでもと、コンビニエンスストアが視界に入る度入るか否か悩み、結局迷っている間に前を素通りしてしまう。憂鬱で、憂鬱なのが嫌だった。電源を落とすなら死ぬか眠るか。嫌でも腹が減れば食い喉が渇けば飲み眠くなれば眠るが、ここ数日はあらゆる欲が死んでいた。無いことへ苛立つくせに欲しいとは思わない類のそれ。
人生に対して食傷気味なのだろう。別に珍しいことでもないし数日すれば元に戻ることを知っているので憂鬱に思い苛立ち不快感に歩調を荒らげ一人きりでいる間の舌打ちの回数が増えても放置していた。今回の波はいつまで続くのかと冷たい目で僕が僕を見ているのが、たぶん僕はやはり憂鬱だった。
コンビニエンスストア、スーパー、ドラッグストア、信号、閑静な住宅街を素通りし自宅へたどり着く。シリンダーに鍵を差し込み、回し、ドアを開け、イヤホンをはずす。暗くも明るくもない声色を意識してただいまと声を発する。おかえりの声を聴きながら靴を脱ぎ、冷たい廊下を歩きリビングへ向かい、顔を見せ、家族の状況を把握し、夕飯の説明にそれらしく返し、自室に戻り荷物と服を片付け、キッチンの夕飯の余りをあたため食べる。吐きそうだ。
立ち上がって食器を洗い風呂に入り風呂を洗いシンクの奥に並ぶペットボトルをまとめてゴミ捨て場に捨てに行った後、洗面台で手を洗い、歯を磨きながら鏡を見る。観測者が僕一人の際、僕は大抵苦いものでも口に含んでいるんじゃないかと疑われるような顔をしている。僕は鏡に笑いかけてみる。実にうまく笑えていて心底腹が立った。最高に最悪で憂鬱だが歯磨きさえ終わればあとは眠るだけだ。僕は自分をベッドまでなんとか運び、スマートフォンを充電器につなぎ、刺したままだったイヤホンを乱暴に引き抜くと枕元にぐしゃりと放る。倒れこみ、布団をかぶり、言うまでも無く眠れず、僕を中心とした冷たい布達磨の中に充電中のスマートフォンを手繰り寄せた。適当な音楽を流したり、動画を見たり、SNSの流れに身を投じたりしながら、基本は淡々と、時に笑いつつ眠気の到来を待つ。結局眠れたのは朝の五時を回ってからだ。日々に笑顔がないわけじゃない。幸せが遠いわけでもない。でも、本当に嫌で、嫌で、嫌で、憂鬱で最悪だった。
僕は夢が好きだ。夢の中に責任は無く、寂しさも優しさも痛みも甘さも愛も恋も善も悪も自分も他人も、そこに在るものはすべて僕だから。僕しかない世界であれば僕は鬱屈な気持ちを膝と一緒に抱えて精神的に座り込みたいと願いつつそうするわけにもいかないと無理やり立ち上がってずるずると傷口からこぼれる内臓を引きずりながら歩く必要もない。鬱屈の原因も内臓がこぼれるほどの傷がつく原因もそこにはない。僕は僕を傷つけるかもしれないが僕はどうして僕を傷つけたいと思ったのか正しく理解できるし、僕は僕の想定できる方法でしか僕を傷つけないし、なればこそ僕が僕の傷を癒せぬはずもなく僕だけで構成された完璧で甘く優しい世界は僕のほぼ唯一の気が抜ける居場所と言っても過言ではなかった。
夢を夢と自覚しないまま僕は歩く。アスファルト、車道から一段上がった歩道。ガードレールの白が晴天の太陽を反射し眩しくて目を細める。あまり手入れのされていなさそうな街路樹で蝉が鳴いている。夏で、暑い――という設定のみが脳裏をちらつく。実際のところ温度は快適で、それでも僕は、夏は暑くて今は夏だからああ暑いなと思っている。
蜃気楼を睨み、よたよたと進む。夢中に明確な目的や意識があるはずもない。ただ、出所の分からない欲求に従順に足を動かす。そこそこ大きな道路。右側は大型商業施設の建設予定地としてずっと先まで簡素な塀に囲まれており、左側にはこまごまとした店が並んでいる。僕が歩いているのは右側の歩道だった。
じゃあじゃあと降り注ぐ蝉時雨。足を動かすのが億劫でないのはその歩みが『移動』ではなく『歩くということ』である証明だ。移動には目的地があり、その行為が移動であるかぎり移動中の内声には『目的地やそこで行われること』への感情が混ざる。僕は歩くことそのものはさほど嫌いではない。夏は嫌いだが、夢の中の偽物の暑さは何となく嫌ではなかった。
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