専門時代文集に載せようとして間に合わなかった奴。
目を開く。視界に飛び込む白い天井。同じく白い壁紙に、木目鮮やかなフローリング。閉めきったドアとカーテン。机、本棚、備え付けのクローゼット。それと、私が今横になっている、焦げ茶色のカバーがかかったシングルベッド。長いほうの辺を、ゆるめの四歩で歩ききれる六畳間。カーテンの隙間から漏れる西日が一筋床に落ちている。換気を怠ったせいで空気は淀んでいるけれど、私があまりに動かないから埃は一切舞っていない。
小さいころ、細かな埃が光を反射して輝くのが、魔法使いの杖先から出る光の粉に似ているからと、はしゃいで、とびはねて、小さな手のひらで、なんとか捕まえようと追いかけまわしていたのをふと思い出した。
ため息をつき、仰向きの体を壁が背になるよう倒す。膝を少しだけ体に寄せて、自分の青白い太腿を穴が開くほど見つめ、しかし、そんなことをしても何になるわけもなく、ただむなしくて、気持ちが沈むだけだった。
膝を抱えて床を見ると、スマホと、スマホから外されたバッテリーが床に転がっていた。ベッドの縁まで体を寄せて、腕を伸ばし、指先が触れる。ひんやりとした無機物の冷たさが心臓の底に滑り込んで、思わず腕を引いた。
二つを手繰り寄せて、組み立てて、外界へのつながりを取り戻すという選択肢がこの手にあることを、私はちゃんと知っている。
けれど、私はそうはしない。
……そういうふうには、できないのだ。
自分だけの世界で生きたい。そう願い始めたのは、もうずいぶん前の話だ。
たぶん、単純に踏みにじられすぎたのだと思う。
別に誰かを攻めようとは思わない。強いて言うなら、とるに足らないことを執拗に気にしてしまう私の方に問題がある。
例えば、私が「空がきれいだ」と笑ったとしよう。それに対し、友人は「そんなことより」と別の話を始める。
例えば、私が「こんな風に在りたいものだ」と道徳的理想を語ったとする。それに対し、友人は「そんな人間居るはずがない」とあっさり否定する。
……例えば、私が小説を書いたから見て欲しいと、原稿を渡したとする。それに対し友人は「ありきたりだよね」と、少し呆れたように笑う。
そんなことばかりだった。一々傷つく方がおかしいのだけれど、どうしようもなく私は傷ついた。
他人の世界において、私は、私がどんな思いでどう生きようと、その人の価値観にのっとって認識されるひとつの存在でしかない。私にとっての私程、私の世界を尊重してくれる人間なんてどこにもいない。
当然で、仕方のないこと。そして、きっと私も誰かのことを同じように傷つけている。
だから、自分だけの世界で生きたいと思った。
それが叶わないのなら、せめて自分は他人の世界をなるべく傷つけず生きたい。決めて、なるべくそうなるよう振舞って。
他人にとって好ましいものであろうと思えば思う程、うまくいかなくて。
――街中を歩いているだけで、まるで水の中にいるみたいに、本当に息が苦しくなるのだ。ごぽり、ごぽりと喉奥を掻き開けて流れ込む水のように、人の視線や、話し声が私の息を殺していく。
みじめで、怖くて、苦しくて。それでも十年頑張った。
結果、特に何を得ることもなく、ただ心が限界を迎えた。
全部投げ捨てて部屋に逃げ込んだのが、つい三日ほど前の話だ。
横たわった体がひどく空腹を訴えるので、重い体をひきずる様に部屋を出た。廊下の空気は部屋より少しつめたい。そのままリビングダイニングにつながる扉を開け、寒々しい居間を横目にキッチンへ向かった。
汚れた食器と、中身の残ったカップ麺や缶詰の容器がシンクに山を作っている。調理台の上に、粉末スープの空袋が散乱していた。なんとはなしに台を撫でると、こぼれた粉が指につく。風が吹いたら最後、この部屋は粉だらけになるだろう。
指の粉を舐めとりながら冷蔵庫を開けると、中には笑えるほど何もなかった。仕方なくキッチン中を探し回ったが、入居時に買い込んだ即席緬から、非常用に一つだけ買った乾パンまで、いつの間に食べつくしていたのか、どこにも見当たらない。つまるところ私に突き付けられたのは『餓死』と『外出』の二択だ。
餓死は嫌だな、と思った。
具体的にどんな風になるのかは想像もつかないが、例えば痩せこけたミイラ状態の私を見て、やさしい両親は、……きっと泣いてくれるのだろう。けれどもまあ、小中高大と生きていく中で、少なからず親しく関わっていた友人等がこぞって通夜に参列する姿は容易に想像できるし、たぶん遺体は綺麗なほうが良いと思う。
仕方なく部屋に戻り、クローゼットを開ける。
着替えることそのものが三日ぶりだった。冬の室温に馴染み、つめたい服に袖を通すだけで、息をするのも嫌になりそうだ。
『餓死』に比べればマシなだけで、『外出』も今の私にとっては、半分『死』と同義。だから、外へ出るまでの過程一つ一つに著しく苦痛を覚えるのは、仕方のないことなのだろう。
ひとつ。大きく息を吸って――吐いて――。覚悟を決める。
家から徒歩五分のコンビニに向かうだけなのに、こんなにも消耗するだなんて、本当にバカみたいだ。
結局、外出の準備を一通り済ませるのに一時間半ほどかかった。寝巻きから灰色のスウェットに着替え、顔を洗い、カバンの中身を確認するだけなのに。……まあ、ひとつ準備が進むごとにいちいち座り込んだりうなだれたりするのだから、時間がかかるのも当然なのだけれど。
壁を手で撫ぜながら廊下を進む。一歩歩くごとに、脚は重く、息は浅くなっていく。
履きなれた青いサンダルに足を滑り込ませ、パーカーの胸元をぎゅっと握る。震えで奥歯がカチカチ音を立てるのが聞こえて、情けなさに笑いそうになった。
視界が明滅する。
震える手で、鍵のサムターンを回す。そのままドアハンドルに手をかけるも、うまく力が入らない。
……押すだけだ。押せば扉は開く。なんなら、このまま身体の重心を少し前にずらせばそれで済む様なことなのに。
「――――」
何もできない私は声一つ出せず、やっぱりずるずるとその場にへたり込んでしまう。こつんと扉に額を付けて、小さく唸った。砂埃で汚れた玄関の床が、視界いっぱいに広がる。
――どうしよう? どうしよう、……どうしよう。どうすればいい? どうすればいいかな。私、どうすればいいのかな。
脳内が一瞬にして疑問符であふれかえる。正解を見つけたくてぐるぐるかき混ぜてみるものの、ぐちゃぐちゃの頭じゃ余計に混乱するだけだった。胸元をつかむ手を反対の手で包んで、滲み始めた涙がこぼれないよう、必死に呼吸を整える。
考え方が悪いだけ。ちょっと考えすぎなだけ。大事なのは思考の転換。大したことない。くだらない。とるに足らない。だから私は大丈夫。大丈夫だ。誰も私のことなんて見てない。知らない。どうだっていい。だから傷つくことも傷つけることもない。大丈夫。怖がることなんて何一つない。今だって、少し外に出るだけ。それだけのことだ。痛いのも苦しいのも、私の思い込みだ。自意識過剰。だから何の問題もない。
どうせ誰も助けてなんてくれない。いや、この程度で助けてほしいと思うことそのものが烏滸がましい。
こんな私は、他人の『世界』ではきっと――。
だから。だからこそ、自分で立って、歩いて、生きていかなきゃいけないのに、
――あなたはいつまでそうして座り込んでいるの?
息が止まる。
……空っぽの胃がきもちわるい。全身の震えが止まらない。どうでもいい。どうでもいい。どうでもいいだろ。いいから立ってくれ。何がそんなに怖いんだよ。別に誰かに酷いことをされたわけでもないし、今までずっと一般的な幸せを享受して生きて来たじゃないか。
全身の力が抜けて、胸元を掴む手が両手ともすとんと床に落ちる。落ちた拍子に、手の側面を擦り剥いてしまった。痛い。
「…………ぃっ、た……」
小さな、小さな、小さな声と同時に、私は、そっと呼吸を再開する。
かび臭い玄関の空気が肺を満たす。頭の中がめちゃくちゃで、もう、何が何だかわからなかった。
ぼんやり呆けつつ、外の様子が気になって、目を閉じ、耳をドアへ当てる。集合住宅特有のざわめきがドア越しに鼓膜を揺らした。子どもの声がする。
心の中で、小さく呼びかけた。
ねぇ、知ってる? 部屋の中できらきら輝く光の粉は、ただの小さな埃なんだ。君が転んで泣いてしまっても、ヒーローなんて来やしない。
なんて――なんて、夢のない『世界』だ。
他人にとっての正しさを知るたび、自分の中心にあったぬるく柔らかいものが剥がれ落ちていく。
そのくせ、かつて見ていた夢の残像は瞳の奥からけして消えてはくれないのだ。
……そう。だから、書いていた。ありもしない美しいものを、いつまでだって書いていたかった。馬鹿馬鹿しいことこの上ないのは、とうにわかっているのだけれど。
「………………」
緩やかに呼吸を重ねれば、訪れるのは強い眠気だ。外が嫌なら内へ。現実が嫌なら夢の中へ。つくづく逃げてばかりだな、と嘲笑したのは他でもない私自身だったのだけれど、きっと他人にとってもこれは甘えに見えるのだろうと、眠りに落ちゆく頭の隅で考える。
――できることなら、何の夢も見ませんように。
扉に全身を預け、数秒。ゆっくりと床に倒れ込みながら、私の意識は瞼の裏に溶けた。
四肢の冷たさで目が覚めた。直後視界に飛び込むのは、砂埃で汚れた床と脱ぎ捨てられたコンバースのスニーカー。そして、灰色のスウェットと青白い自分の手。ぼやけた頭で眠る前のことを思い出す。そうだ、私、玄関で気を失って、それで――。
はっと体を起こすと、廊下の突き当り、開け放たれた寝室の扉の向こうで、窓越しの月が静かに輝いていた。
腕時計を確認したところ、時刻は夜十一時半を回っていた。つまるところ、私は六時間ほど寝ていたことになる。
「……そうだ、コンビニ」
ひとりごちて、玄関の床に座り込んだまま、ドアハンドルへ手を伸ばした。
軽く押せば、がちゃりと音をたて三センチメートルほど扉が開く。
私の世界に、他人の『世界』が音を立て流れ込む。
「…………ぁ、」
白昼夢、あるいは、幻覚。
存在しない幻の水が、瞬く間に私の家を満たした。肺に水が流れ込むような原始的な息苦しさが私を襲う。
在り得ない水は白銀の月明りを歪ませ、絶え間なく形を変える波の影を平然と床に落とす。吐く息が泡になり、コロコロと音を鳴らしながら上へ上へと登っていく。
天井にぶつかり壊れて消える水泡を、呆けて見ながら思う。
とうとう、本当に誰とも分かり合うことができない頭になってしまったのか、と。
そして、十分はそこでじっとしていた。
冷静に考えれば当たり前のことなのだけれど、幻の水に溺れたくらいじゃ、人は死なない。息を吸えば、口と鼻を通り水が肺へと流れ込む感覚がある。でも、呼吸は滞りなく行われている。
ひとりきりの水底、絶望したって助けはないけれど、死ぬこともなく私は、どうしてもそこにいる。
ふと、私の頭の中にある考えがよぎった。
……この水は、ある意味私の苦しみそのものなのだろう。理解し難い現象ではあるが、可視化されたのなら、あるいはそれが『ない』場所を見つけることもできるのではないか。
水に沈んでいるとはいえすべては幻だ。息をするたび泡がこぼれるのは未だ変わらないが、頭がおかしくても外に出ることはできる。
なら――探しに行くのだ。息ができる場所を。
どことなくズレた発想だとは当時も少し思ったけれど、シンプルに錯乱していたのだから仕方ない。
ドアハンドルにしがみついて、泡のように揺らぎながら私は立ち上がる。脱げかけていたサンダルを履きなおし、スウェットについた砂を払って、一歩踏み出す。
冷や汗と、軽い震えがぶりかえす。息は苦しいし頭はくらくらするけれど、こんなところに居てもどうしようもないのだからと、一歩一歩、前へと進む。
誰にも会いたくないと祈りながら、他人のにおいがこびり付いた三階の廊下を抜ける。
切れかけのLEDが明滅するエレベーターに乗り込み、つめたい姿見に体を預けた。やがて一階へとたどり着き、私はふらふらとエントランスへ足を踏み入れる。
今が、夜中でよかった。人一人いないエントランスを見回し、心からそう思った。
混乱で、もはや当初の目的が夕食の買い出しだったことすら忘れ、私は逃げ惑うように街へ踏み出す。
ぶくぶくと泡を吐き、がぼがぼと水を飲みながらあてどなく藻掻く私は、まるで動く溺死体みたいだった。
マンション前の通りは街灯に照らされ明るい。左右に走る道路の端を、右へ向かって歩き出す。集合住宅の立ち並ぶ居住区域を抜け、明るい方、明るい方へと無我夢中で進んでいく。
震えは止まることを知らず、呼吸は浅く速い。冷や汗が頬を伝い顎から滴り落ちる。脳はオーバーフロー寸前で、まともな思考はとうにできなくなっていた。
明るい、明るい方へ、きっと誰かいる。きっと、誰か、誰か、……誰か。
誰とも会いたくないのに体は喧騒を求め、きらびやかな駅前へ向かい進んでいた。住宅ばかりだった視界内に、店や雑居ビルの影が少しずつ映り始める。
煌々と輝くコンビニエンスストア、遠目に見える百貨店の看板、家電量販店はすでにシャッターが閉まっている。
先へ進む。
居酒屋、ドラッグストア、ファストフードのチェーン店。
けたたましい笑い声が聞こえる。耳栓代わりのイヤホンを、スマホと一緒に置いてきてしまったことに気づく。
やがて、私は駅前の交差点にたどり着く。駅の利用客がエスカレーターに吸い込まれていく。それを眺めながら、ゆっくりと、交差点の中央へ移動する。やがてたどり着いたそこは、まるで世界のまんなかみたいで……水槽の縁すら見えない、きっと、どこにも行けない場所だった。周囲を、たくさんの人が通り過ぎていく。
私は、ぐるりと辺りを見渡した。誰か。誰かもわからない誰かを、心底求めて探していた。
――それなのに。
白い縞の上を悠々と歩く人々は、みんな上手に街に溶け込んでいた。
点滅する青信号に照らされ、このどうしようもない水底で、泡を溢すこともなく平気な顔で息をする。
私のように街に溺れる愚かな人間は、そこには誰一人として存在しなかった。
ごぽごぽと、自分の口からこぼれる泡を見上げ――。
赤く輝きはじめた信号のまばゆさに、諦めるように目を閉じた。
全身の力を抜けば、訪れるのは強い眠気だ。肺を満たした冷たい水がどくどくと心臓に流れ込み、全身を巡ってすべてを凍らせていくようだった。
震えが止まる。
力が抜けて崩れ落ちる体。クラクションが高らかと耳を貫く。ヘッドライトの光がスポットライトのように私のことを照らしているのが、伏せた瞼を通してはっきりとわかった。
どこにも行けないまま。誰の、何にもなれないまま。
ひときわ大きく聞こえたクラクションと悲鳴、甲高いブレーキ音と都合よく飛び込んできた衝撃に叩き潰されて、それで私はおしまい。
地獄の底で死んだなら、次はどこへ行くのだろう。
思考が結末へ至るより一寸早く幕が降りた。
あとはさみしいだけだった。
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