TRPG、SW2.0「マナリア学園CP」より。
うちのこ。
小さい頃、父が項垂れて帰ってきたことがある。
訳を尋ねると、父は私と視線を合わせ、神様の声が聞こえて以来ずっと、ずっと肌身離さず持っていた僕の聖印が砕けてしまったのだ、といった。
沢山の思い出がある、聖印だったのだと。何度も助けてくれた、みんな、すべて、全部への架け橋だったのだと。
父は痛く寂しそうに笑い、丁寧に布に包まれていた、砕けた硝子と銀の鎖……聖印だったものをそっと私に見せてくれた。
――瞬間、思い出す。
遠征から帰ってきては、書斎で本を読む私を微笑んで眺めながら、大切そうにその聖印を磨く父。 毎朝のようにそれを握り締め、目を伏せ祈りを捧ぐ父。
そうだ、思えば、朝食の前の祈り。信者の方への信託。癒しの奇跡の行使。迷った時の願掛け。悪戯に笑い、なくしもののダウジングに使って見せたこともあった。そうか、これは、きっとれっきとした父の友人であったのだと、手を伸ばし破片に触れた。指先に小さな切り傷がつく。少し痛いな、と思う。
大したことの無い傷なのに、それはぴりぴりと痛みを主張し続ける。大して痛くないはずなのに、どうしてか涙が溢れた。指を切るだけで、……ならば。ならば、身を砕かれる痛みは如何程のものだろう。友を失う痛みは如何程のものだろう。
指の傷が痛いな、と思った。
どうしようもなく胸も痛かった。
泣き始めた私に父は慌てふためいて、私の指の傷を癒す。母は理不尽に父を小突いて、父は困ったように笑った。
「痛かったね」と、優しく声をかけられるけれど涙は止まらない。自分と、父と、聖印と。ぐちゃぐちゃに混ざって何が何だかわからなかった。ただただ悲しくて、痛くて、少しだけ悔しくて。
「痛かっただろうなって、悲しいなって思ったの」
要領を得ない言葉をなんとか発し、私はいやいやと首を振った。
こうやってだだをこねて、それが運良く神様の耳に届いて、この小さな父の友人が元通りになってしまえばいいと思っていた。悲しいのも痛いのも嫌だった。誰かがそうなることも。
「壊れたものは戻らないのよ」
窘める、といった様子もなく母が言った。父が眉を下げ母を止めようとするも、母は淡々と突っぱね私へ言う。
「いい? アナスタシア。壊れたものは戻らないの。魔法や奇跡や色んなすべで元通りになっても、それが一度壊れてしまったのだという『こと』は永遠に変わらない。痛かったでしょう。悲しかったでしょう。やるせなかったでしょう。きっと『それ』はミトロジアと、もっと色々なものを見たかったでしょう。ミトロジアと『それ』の抱いたその気持ちは、その気持ちを抱いたという事実は消せないの。だから元通りになっても悲しい気持ちは綺麗さっぱりはなくならない」
母は高らかに笑う。このひとは、いつもそうだった。
「悲しみが嫌なら守り抜きなさい。愛するのなら別れの痛みを覚悟しなさい。泣いたってかまわない。ただそれが中途半端だと……」
母はすっと父へ目を向ける。
「ミトみたいなドヘタレ野郎になるから気をつけて頂戴」
「ええ!?これ僕ディスる流れだった!?」
わぁわぁと抗議の声を上げる父を見ながら何も言えずに佇む私に視線を戻し、母は「ま、そういうことよ」と軽く話を締めくくった。
「ええと、アナスタシア」
俯く私へ父は笑う。
「僕とこれのために泣いてくれてありがとう。なんだか救われた」
「本当?」
「ああ、本当だとも。……そうだな、そんなにも想ってくれるのなら、こいつのために一緒に祈ろうか」
父はそう言って欠片達を手頃な場所に置くと、手を組み祈り始める。
数拍置いて、私も父に倣う。母は傍らで私たちを見守っていた。
私は、何も言わずに目を伏せる。
……十秒、二十秒。遠くどこからか、声が聞こえた。聞き取るには少しだけ小さいけれど確かに聞き覚えがある声で、けれども誰の声かはわからなかった。
……三十、四十。父、聖印、私。それと遠い声。
「きみはそのままでありなさい」
俯く頭上で声がして、私はぱっと顔を上げる。
しかしそこには誰もおらず、ただ机上に置かれた聖印が光を集めてゆらゆらと揺れるのみ。隣には目を見開く父。すぐ側にはしたり顔の母。呆然とする私を差し置き、父は母へと詰め寄った。
「妖精の悪戯にしてはタチが悪い」
「違う、違うわ。私じゃない」と、くすくす笑う母。
「ならなんだ?君はこれを”この子がやった”って言うのか?」
がさつにじゃらりと鎖を掴み、聖印を掲げてみせる父。……聖印。バラバラに砕けていた聖印が、綺麗に元に戻っている。思わず、口を開いた。
「……お父様の聖印、元に戻ったの?」
ばっと振り返り「違うんだ、アナスタシア、これはきっと……」とむくれて母を見やる父に、母はただ笑って「違わないわよ」と返した。
「これは貴方の祈りの結果。ぼーっと見てたら急に直り始めたからびっくりしちゃった」
「ほんとなのよ、ミト」と苦笑いを向ければ、いよいよ父も信じたようだ。
「やっぱり、貴方はミトの娘」
さらり、と母の手が私の前髪をすく。くすぐったくて細めた目を覗き込むようにしながら父が微笑んだ。
「そうか……とうとう君にも聞こえたんだね」
……それなら、これはきっと君のものにすべきだ、と、父は私の首へ、元通りになった聖印をかける。「僕の娘を頼んだよ」。
その日から、父の聖印は私の聖印になった。私は何度もそれでいいのかとたずねたけれど、父は「君がこれをなおしたのなら、僕がこうしたいんだ」と笑うだけだった。
「それに、僕にとってのこいつはもう砕けてしまったからね。新しく生まれた彼は、もう前には戻れないんだ」
ちゃり、と鎖を鳴らし。
時が経ち、日々学び、必要のなくなった今でも鞄の中にそっと忍ばせている。
物と人の絆。大切なものを失う悲しみ。物の痛みや心。そして、壊れてしまえば戻らないから、だからこそ、守り通さなければいけないこと。
この聖印は、確かに私に決めさせた。私はこの痛みを手放すことだけは絶対にしないと。
そう。銀の鎖に繋がれた水晶玉が、彼女の首にかけられたあの時。きっとそれが、彼女のはじまりだった。不定形な幼少期の原風景。ひりつく傷の透明な思い出。幼く泣き虫な少女はやがてあたたかな笑顔を咲かせ、無辺の光であたりを照らす陽光となる。――これは、そんな彼女の、長くて短い物語。
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