わたしが死ななきゃいけないのは、
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音の無い日々。
あなたのせいで。あなたのせいで。繰り返し。
わたしのせい。わたしのせい、なのかな。わたしのせい、なんだろうな。そうだよね。
わたしが悪いから。わたしが悪いのかな。
自分のことは自分でしなきゃ。
本を読んでいた。たまに話しかけてくれる子もいたけど、きずだらけの子供は変だし、変なのは怖いから。
ひとりだった。それがふつうだった。おもいだしてみれば、それでよかったのに。
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痛いのが降り注いで。くるしくて、でもそれがふつうだった。
わたしが悪かった。わたしがだめだった。
何も間違えないでいなきゃいけないとおもった。だから頑張った。
がんばってもたまに間違えた。間違えても間違えなくても、痛いのは変わらなかった。
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母が知らない男の人を家に上げている時、何をしているか気になって扉に耳を当てたら母が泣いているような声が聞こえて、思わず扉を開けた。男の人と母が裸で重なり合っていた。
男の人は母を怒鳴りつけて、服を着て去って行った。
母にだいじょうぶか尋ねると、母は今までで一番強く私を蹴り飛ばした。
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あの日から、家から追い出されることが多くなった。
公園にいたら、上の階のアヤカちゃんのお母さんが声をかけてくれた。
痛いのはおかしいことだって言われた。優しくしてくれた。なぜか謝られて、抱きしめられて、怖かった。
たぶん優しい人達だった。お母さんがみんなのお母さんと違うのは、本とか、テレビとか、マンガとか、授業参観とか、街を歩いたりとかで知ってた。でも、おかしいって言われるまでは、そうは思わないようにしてた。なんだか自分が悪いみたいで居心地が悪かった。お母さんは悪くないって、口からこぼれた。それは、わたしとお母さんにとっては本当の事だった。
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ずっと相談して、でも、おばさんたちはお母さんに話に行くと言った。アヤカちゃんがいない時の方がいいだろうって言って、校外学習の日になった。わたしが追い出されている日は絶対に家に帰っちゃいけないって言われていることも伝えたけど、大丈夫って言ってた。大人だからって。
大雨の日、おばさんたちは、お母さんに会いに行った。
遅かったから、様子を見に行った。
おばさんたちはうごかなくて、つめたくて、赤くて、なまぐさくなっていた。たぶん死んでしまっていた。家中血だらけだった。お母さんが私のことを縛った。お母さんは私に、「この人達は、あんたのせいで死んだんだよ。私も、あんたのせいで死ぬんだよ」と言った。お母さんは、灯油を撒いて火をつけて、それから首を吊った。
しばらくして、目が覚めた。知らない天井が見えた。
全部わたしのせいなのに、わたしだけが生きていた。
雨が降っていてよかったねとお医者さんは言った。
わたしは、ぜんぜんそんなふうには思えなかった。
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叔母の家に引き取られることになった。挨拶もせずに転校した。
叔母は、姉であるお母さんのことが嫌いだったらしい。
でも、表面上は普通に過ごしていた。暴力もなくなった。
従兄は私のことを気に入っているみたいだったけど、従兄が向けてくる視線は好きじゃなかった。
唯一、温かく接してくれたのは叔母の旦那さんだった。息子もいいけど娘も欲しいと、ずっと思っていたと。
おじさんも読書家だったので、よく本を借りて、読んだ。
わたしのせい。わたしのせいで、わたしにやさしい人がたいへんな目に遭うなら、わたしはきっと嫌われていたほうが良い。だから学校でも、家でも、そういう風にしていた。学校では、ちゃんとみんな距離をおいていた。家では、叔母と従兄はそんなに構ってきたりしなかった。
おじさんだけが気にせず話しかけて来た。
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おじさんが誕生日に絵本とおまもりを買ってくれた。
贈り物はずっと断っていたけれど、これくらいなら。気になる様なら絵本は僕の部屋に置いても良いからと押し付けられた。始めてもらったプレゼントだったから嬉しかった。
絵本にはユーリという金色の髪をした少年が出て来た。ぴかぴかで、いつも日向の様なひと。
お城に閉じ込められた主人公を連れて逃げて、怖いものから守ってくれる。
けれど、美しいのはうわべだけ。本当は自分のこころがないから、かわりに主人公のこころを奪おうとする悪い魔法使いで、いよいよ危ないというところで主人公は、今度こそ本当に善良な村人に救われ、共に村へ向かっていく。
都合のいい話はないよ、だとか、優しいだけの人には気をつけなさい、とか、そういう教訓にみえるけれど、ユーリは本当にわるものなのだろうか、とちょっと思ったりした。村人じゃ、主人公を城から連れ出すことも出来なかったし、あの時手を差し伸べてくれたのはユーリなのに。
おまもりは、なにかとついていないわたしの様子を見て買ってくれたらしかった。
大切にしようと思った。
そんなに怯えなくても、もう大丈夫だよと言われて、わたしは、心底安心してしまった。
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大雨の降った日、おまもりのヒモが切れて横断歩道に落ちてしまった。まだ信号が変わるまで余裕がありそうだったから、駆け足で戻って拾おうとした。でも、そこに一台のトラックが突っ込んできた。
おじさんが、わたしを庇って死んだ。
歩行者信号は漸く点滅を始め、車用の信号が変わらず赤く輝いているのが視界の端に見えた。
けれど、でも。それでも、やっぱり、どうしようもなく、これはわたしのせいだった。
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叔母はあの日から射殺すような視線をずっとわたしに向けている。
あなたのせいで。久しぶりに聞いた気がした。あなたのせいで。
言葉では色々と言われた。償いの気持ち、と名前を付けて前以上に色々とやらされるようになったけど、慣れていたので淡々とこなした。それがなおの事叔母を苛立たせているみたいだけど、失敗してもそれはそれで詰られるので変わらなかった。
叔母が仕事をはじめてしばらくしたある日。叔母の帰りが遅い日。従兄が自室にわたしを招き入れた。何をされるかはなんとなく知っていた。たぶん、ずっと昔扉を開けて母と男の人がしていたことをするのだ。それがどういうものなのか、わたしはちゃんと知っていた。
償いのためだと言われた。嫌だとは言わなかった。本当に償いになるなら。本当は関係なくても。もうどうだってよかった。
痛めつけられている間だけは、自責の念に駆られずに済むから。
ゆっくりと、心が空っぽになっていく。一度混ざった甘さと苦さを分けて捨てることはできないから。心に穴をあけた。
わたしの中身がなくなっていく。
安心した。それでいい。わたしなんて、なくなればいい。
それでも生きているのは、ただ、二度も誰かに護られた命を手放す勇気がないだけだった。
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台風で風の強い、大雨の日。
叔母は大雨洪水警報でいつもより早く帰って来た。
もう少し早く気付けばよかった。雨音で、足音が掻き消されて。
後悔しても遅くて。
ドアが開いた。従兄も、叔母も、わたしも。何も言えなかった。
叔母の手から荷物が落ちた。従兄が私の上から退いた。叔母はリビングの方へ駆けて行った。
従兄は急いでズボンを上げた。わたしもそれに倣った。なんか、間抜けだ。
叔母は包丁を持って、部屋に駆け込んできた。
「恵ちゃんは、こんなことしないものね」と、確認ですらなく、当然の様に叔母は言った。
「そうだ。コイツが誘ってきたんだ。俺はただ部屋で勉強をしようって言っただけで」
否定の声を上げようとすると、「一度だっていやだなんて言ったことないだろ。むしろ積極的に」
「お前は。お前は。」「あの人だけじゃなく恵太まで私から」「魔性の女。流石はあの女の娘」「誰の金で食事をさせてもらっていると思っているのか」「死ね。死んで詫びろ」と。
包丁をわたしのお腹の高さで持って、駆け込んできたのを咄嗟に避ける。
どうするべきかわからなかった。このまま刺されるべきなのか、それとも。
錯乱した叔母さんに人を殺すにあたっての効率だとかは頭から抜け落ちている様で、包丁を高く振り上げ、そのままわたしに向かって振り下ろしてくる。
わたしは、頭上で叔母さんの手首を掴み、必死に抑える。
突き放されて、また縋りついて。
思考が追いつかない。
なんとか手放してくれないものかと叔母さんの握る包丁の柄をわたしも掴んで、思い切り振り回した。
もみくちゃになって、わたしと叔母さん、二人が包丁を握って、バランスを崩して、それで。
わたしが仰向けに倒れ込んで、頭が棚にあたって、飾られていたトロフィーが落ちて、肩にぶつかって。
叔母さんがわたしに向かって飛び掛かってきて、わたしの手には包丁があって。
ずぷりと、叔母さんの腹部に包丁が突き刺さって。
「ぁ、――?」
思わず、叔母さんを押しのけながら、横に避ける。包丁を握りしめた手の力がぬけなくて、包丁が傷口から滑りでる。叔母さんは、呆然と自分の傷口を、どくどくと溢れる血を眺めている。わたしも。
肩が痛い。包丁が床に落ちる。カツンと軽い音。
叔母さんは驚きすぎて声も出せない様だった。
三人分の呼吸の音と、血が床を流れる音が、した。
鉄臭い。
数秒の沈黙のあと、従兄が叫んだ。
「あぁ、あ、ぁ、あ、ああああああああああッ!!」
「お前、なにを……どうするんだよ!!母さんが死んだら、俺は」
「父さんも、お前が殺して、母さんまでお前が」
声が遠く聞こえた。張り詰めていたものが、切れる音がした。
耳鳴りがうるさくて、雨の音がうるさくて、わたしは、また間違えて。
間違えて。
「は、」気が付けば、従兄はわたしの胸ぐらを掴んでいた。
わたしの胸ぐらを掴みながら、すぐ目の前で燃えていた。
炎は私に触れたところから燃え広がっていった。黒かった。
「恵……ちゃ…………」
わたしじゃない。わたしはなにもしようとなんてしてない。ないのに。
叔母さんは最後の力を振り絞り従兄の火を消そうとはたくが、そのせいで燃え移ってしまったようで、従兄と同じ様に火達磨になっていた。
ふたりの怨嗟の声が響く。わたしだけが、またひとり、なんともなくて。
燃えていく二人をまえに立ちすくむわたしの視界に、棚から落ちた家族写真が見えた。
おじさんと叔母さんと従兄、三人が幸せそうに笑っていた。
そうだ。わたしが、わたしが居なければ、おじさんは死ななかったし、叔母さんは幸せで、従兄だって同じ家にわたしが居なければ、きっとこんな風になる事も無くて。
わたしが、わたしのせい。わたしが殺してしまった。おじさんの大事な二人を。おじさんが守っていた家族を殺した。おじさんも殺した。おじさんはわたしを守ってくれたのに恩をあだで返した。お母さんも、水面のおじさんおばさんも、みんな、みんな、みんな、みんな。
ずっとそうだ。わたしは、周りの人の幸せを壊さなければそこに居られない。もっと早くに見切りをつければよかったんだ。最初からそうだったのにわたし、わたしは、なんでこんなになるまで生きて。
わたしのせいだ。ぜんぶわたしの、
”あんたなんて、生まれてこなければよかったのに。”
おかあさん。
そうだ、そうだね。
――わたしなんて、生まれてこなければよかったんだ。
弾かれるように駆けだした。行先を考えて靴は履いた。濡れながら走った。夏の雨水はぬるく、空気が湿っていて息が苦しかった。
雨も風も本当に酷かったから、誰も外に出てなんていなかった。
誰にも見つからないのなら、誰かに見つかりたいのだろうと思った。ほんとうに浅はか。
わたしは。つくづくついてないから。
走って、走って、走って。山に差し掛かって。山へ続く道はバリケードで封鎖されていて、でも無視した。体の中心が熱くて、酸素が足りない頭が重くて、痛くて、苦しくて、でも、そうじゃなきゃダメだった。
駆け上がって、脚が痛くて、転んで、体中が重くて、このまま眠ってしまいたくて。
それでも。
それでも。
自分で終わらせる以外に責任の取りようなんてないから。
このままここに居たらまた壊してしまうから。
青臭い土のにおいが雨と混ざり合って。
どうどうと流れる水の音を聞いて。
雨はいよいよ前も見れないくらいで。
橋のまんなかまで歩いて、わたしの人生、はじまりから順番に、ぜんぶ思い出した。
ぜんぶ思い出して、おわりにした。
目を伏せて、最後に。
「うまれてきてごめんなさい。」と、声にならない声で、ささやいて。
わたしの人生、ぜんぶ、ぜんぶ、終わらせるつもりだった。
終わってしまったはずだった。
今はもう、きっと、おしまいのあとだった。
なのに、いまさら。
「危ないですよ」なんて、声が。
声が、聞こえたんだよ。
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