prologue『おしまい』03-B

【2.強く伸ばした。】


 

 

だけど、わたしは、咄嗟に手を強く伸ばした。
結ばれた両手を解いて、右手と左手を、力の限り伸ばした。
雨水で視界が濁って何も見えないけれど、がむしゃらに上へ。
重力と反対の方へ。
下じゃない方へ。
水じゃない方へ。
わたしの、死なない方へ。

どうして?
覚悟は決めてたはずなのに。
どうしようもないのに。もう全部終わってしまったのに。
こんなことしたってなにもないのに。
わたしには、もう、なにもないのに。
だめなのに。

けれど。
でも、伸ばしていた。
わからないなりに。
そうはしないと決めていたわたし以上に、そうしたいというわたしが、あらん限りの力を込めて手を伸ばしていた。
まわりのすべてが緩慢に見える。瞬きで視界の曇りを払う。
改めて見ればわたしはもうどうしようもなく、落ちている。
仮に男が橋から手を伸ばしたとして、それでどうにかなる距離じゃない。
もう、どうやったって雨粒と共に濁りへ飲み込まれていくしかないように思えた。
それでも伸ばしていた。
ぎゅっと目を閉じて、限界まで。腕も肩も、全身が痛いくらい、強く。
どうせ最期。もう全部終わってるんだ。
残ったもの……なんにもないけど、でも、なにもかも投げ捨てるくらいの気持ちで賭けたっていいでしょ。

届いてよ。

…………そう、願った。

――――右手の指先が、あたたかいものにつつまれるのを感じる。
そのまましっかりと掴まれて、次に左手。
気付けば、服と髪のはためく音が、ひとり分増えていた。

……なんで?

瞼を上げれば、先程までと変わらない微笑みがそこにある。
両手を掴まれて向かい合ったまま、わたしが下、男が上。そのまま二人で落ちていた。
意味がわからない。
見ず知らずの子供と心中するなんて、普通じゃないし、どうかしてる。
どうかしてるよ。
ねぇ、このままじゃ死んじゃうよ?
馬鹿なんじゃないの?
わたし、助けてなんて……本気で思ってないのに。
違うのに。
掴まれなくたって恨むこともなかったのに。
なのに、どうして?
たくさん、思って。けれどどれも口から出なくて。
男の髪が、瞳が、きらきらとひかる。
それを見て、わたしは自分達がスポットライトの様な光に照らされつつあることに気づく。

――雨と晴れの境目。
はっきりと視認できる光のカーテンが、滑るようにわたし達を包み込んでいく。

遅いよ。もう、全部終わっちゃったのに。
こんなところで手を取ってもらえたって、全然どうにもならないのに。
でも、ああ、もう、なんで、

――握られた手を、握り返してしまうんだろう。

離さなきゃ。離して、戻ってもらわなきゃ。
どうやって?
無理かもしれない。
でも、そうじゃん。
なのに。
「――天使?」
混乱のまま零れた言葉。
男はわたしを引き寄せながら、
「死神かもしれませんよ?」
なんて言って、曖昧でなく、確と微笑んだ。
庇う様に強く抱きしめられ、視界が祭服の白で埋まる。
夏のぬるい空気の中、煩わしいはずの体温を何故か心地よく感じた。
吸い込んだ空気は、水臭さを掻き消すような甘い香りを伴っている。
まだ出会って間もないのに、らしいなと思う。

……どっちでもいいよ。
天使でも、死神でも。
願いでも、惰性でも。
関係ない。わからないまま、それでもわたしは縋りついた。
だって、どうせ全部終わってしまったあとなんだから。

――ふたり、息をしていた。
心臓が、強く鳴っていた。

わたしたちの躰は、天使の梯子から零れ落ちる様に濁流へと飲み込まれていく。
天恵も祝福も届かない、運命の外。汚濁の中。そして、その流れつく先へ。

ここから先は、おしまいのあと。
結末の後の顛末は、わたしにも、誰にも。
きっと、神様にだってわからない。

『√.おしまいのあと』

 

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