新月

お題で書いた奴。


 

 

 一月十一日。晴れ。雲一つない冬の高い空が昏く澄み切っている、そんな夜の話。
 
 初めから、帰りたくないとは思っていた。単純にいい思い出がないからだ。いい事がなかったとは言わないし、自分のことを不幸な奴だとも思わない。けれど小中高と浪費したこの片田舎でのつまらない時間をそれもまた思い出と笑えるほど、俺はまだ耄碌しちゃいなかった。
 親にしつこく言われて渋々帰ってきたものの、駅前の懐かしい景色を触媒に蘇った記憶は、どれも少しずつ苦しみや孤独感を伴っている。
 広場の石畳も噴水も公衆電話も、公園のベンチもブランコも子供の声も、学校の校舎も校庭も、家の外観も、内装も、そして自分の部屋でさえ。
 だから、スーツを着込んで家を出た後、俺は会場とは反対の方へ歩き始めた。数時間経って、式が終わったのかあちこちで目に入る振袖やスーツにも見て見ぬふりをして、履きなれない革靴で足のあちこちに靴擦れができても、寒さで指先の感覚がなくなろうと、ただ歩いた。
 同窓会が終わるであろう時間までは家に帰らないつもりだった。ふと思い出して、動かない指でスマホを操作し俺抜きでもつつがなく進行するであろう同窓会の案内メールを消去した。やりきれない気持ちを紛らわすために、コンビニでほろ酔いを3本買って飲みながら歩いた。少しだけ、胸がすく。
 家を出た午前中から歩き通して8時間。あまり遠くまで行くのも、と思いぐるぐると街を巡っていたが、運動不足の身体はいよいよ音を上げそうに軋んでいた。冬の日は短く、既にとっぷりと暮れて、寒さは一層鋭くなる。さっきほろ酔いを買ったのとは別のコンビニで、フライドチキンとホットの缶コーヒーを買って冷え切った胃に押し込んだ。少しだけ寒さが和らぐ。
 もう、理由を付けて家に帰ってしまおうかと思った。心も体も、今にも崩れ落ちそうなほど疲れていた。不意に目に留まったバス停のベンチに座り込んでぼんやりと空を見上げる。耳鳴りがしそうなほど高く、遠く、昏い空。疲れと、先ほど食後の安心感で意識が遠のく。いっそ、このまま少し眠るのもありかもしれないと思った。

 しかし、不意に背後から聞こえた循環バスのアナウンスではっと意識が戻る。ベンチに腰掛ける俺を見てバスを待っているのだと勘違いしたのだろう。音をたてて扉が開いた。
 俺は、乗りません、と意志表示をするために立ち上がった。けれど、思考より先に身体がバスへ乗り込むことを選んでいた。行先表示に無意識のうちに反応したが故の行動だった。

 ――ひとつだけ。ひとつだけ、天地がひっくり返っても肯定できるような、大切な思い出がある。
 このバスは、その思い出と深く関わる場所へ通うために、いつも使っていたバスだった。乗るつもりも、もっと言うと、本当はそこへ行くつもりもなかった。それは思い出のままにしてさえおけば、一生俺にとっていい思い出でいてくれるのだと知っていたから。
 精算機に電子マネーをかざす。空調の効いた車内はあたたかく、俺はそのまま群青のシートに身を沈めた。窓に頭を預けるとエンジンで小刻みに揺さぶられて心地よかった。
 本当に、行くのか。それならそれもいいか。どうせもう、何も進む事も戻ることもない。だから、怯える必要も期待する理由もない。

 知ってる? 月がない日の方が、星は見えやすいんだよ。
 なんて。
 調べたら、奇しくも今日は新月で。
 …………あーあ。

 七つ目のバス停で降りた。とつぜん外気に晒されたので寒く無い訳がないが、無視をした。すぐ目の前に鳥居と、ずっと長い階段が続いている。申し分程度にしか明かりのない階段は暗くて、でも怖くはなかった。上り慣れていたはずの階段を、歩きなれない革靴で進む。昔よりずっと息が上がるのが速い。

 何となく星を見に来て、偶然出会って、言葉を交わした。長期休みの間だけ、親の帰省についてくるのだと彼女は言った。小四の夏休みから、中三の冬休みまで。長期休みが始まると、言外に示し合わせて僕らは落ち合った。
 集合の合図は、新月。カレンダーに月齢を書き込んで眺めるのが習慣になり、少しだけ星に詳しくなった。

 無い月が綺麗な訳がないから、これは、恋にも愛にもなり得ない。でも、僕の中では、本当にただそれだけが――、

 昔と同じように駆け上ることはできなかったけれど、何とか立ち止まらず階段を登りきる。ただでさえ靴擦れだらけの足はひどく痛み、酸素が足りない頭がぐらぐらと揺れ、冷たい空気を取り入れ続ける喉は冷え切り、対して肺は焼き切れそうだった。
 冬真っただ中にスーツ一枚でバスを降りた直後は本当に寒かったのに、今は服が肌に張り付いて気持ち悪いと感じる程に全身汗ばんでいた。
 境内は静かで、階段よりも暗いが歩けないほどではない。
 この神社に社務所はなく、境内にあるのは慎ましやかな拝殿だけだ。氏子さんが定期的に手入れをしに来ているらしいけれど、基本普段から誰もいない小さな神社だった。
 灯りがともることのない灯篭や狛犬は以前見た時よりもさらに苔むして、けれど拝殿の方は変わらず、質素な佇まいでしんとそこにあった。

 そして、拝殿の縁に、まるであの日の続きのように、君が座っていた。

 初めは、頭に酸素が足りな過ぎて幻覚でも見ているのかと思った。けれど、階段に取り付けられた切れかけの蛍光灯と、星明りにぼんやりと照らされる君は確かにそこにいる。
 ずいぶん、髪が伸びたな。座っているからわからないけど、背も少し伸びたんじゃないだろうか。
 水色のワンピースを着た君は記憶の中の姿よりずいぶんと大人びて、けれど色素の薄い肌や髪や、遠くを見ているような瞳は相変わらずで。
 君はふっとこちらを見て、僕の脳裏に染み付いた思い出となんら変わらない、緩めるような笑みを浮かべた。僕は何も、何も言えなかった。君の瞳の奥で今も昔もちかちか輝く、星のような光を見て息を止めていた。
 僕の人生の中で、こんなにも僕の心を動かすのは、やっぱり君だけだった。

「ひさしぶり、だね」

 君はそう、言葉を紡いだ。僕は頷いて、君の隣に座った。何の心の準備もできていなかったから、無言で夜空の星を仰ぎ見た。

「うれしい。来てくれたらって、思ってたから」
「……」
「思ったの。……きみの、成人式だなって。だからね、電車に乗って、ここに来て。……待ってたら、ほんとうにきみが来た」
「……あの、さ」

 シリウス、カペラ、アルデバラン。冬の星は静かに瞬く。ここに来るたび空の星にばかり詳しくなって、その実隣の君を見る勇気はこれっぽっちもなかった。

「また、星を見よう」

 僕は、空から君へ視線を移す。君も、空ではなく僕を見ていた。
 僕を映す瞳の一番深いところに、君はいつもと変わらぬ星を湛えている。どこか遠くを見つめるような君の目にはきっと君にしか見えない星が映っている。
 星を見ることができるなら、月なんて。

「これでいいのかな」

 と君は言った。その声が、あまりに不安そうだったから。

「いいんだよ」

 と、僕は答えて、初めて君に勝てたような気がして、少し笑った。

 

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